ギョベクリ・テペ, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2414531 / CC BY SA 3.0

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ギョベクリ・テペ(トルコ語: Göbekli Tepe) は、アナトリア南東部、シャンルウルファ(旧名・通称ウルファ、古代名エデッサ)の郊外(北東12km)の丘の上に在る新石器時代の遺跡。
「テペ(Tepe)」はペルシア語で「丘」または「塚」を意味する。
遺丘の高さは15メートル、直径はおよそ300メートルに及ぶ。
地名は「太鼓腹の丘」の意。
標高はおよそ760メートル。
ドイツの考古学チームにより発掘調査が行われた。
発掘は1996年から始まり、チームの指揮を執ったクラウス・シュミットが他界する2014年まで続いた。
ギョベクリ・テペの遺丘に残された構造物は非常に古く、紀元前1万年から紀元前8000年の期間に建てられた。
祭祀に用いられたと考えられるこれらの構造物には2段階の発達が見られる。
第一段階(先土器新石器A)では巨大な丁字型の石柱がいくつも円を描くように並べられている。
物理探査(リモートセンシング)により石柱の総数は200本以上、それらの描き出す円が20確認されている。
各石柱は6メートル以上、重さは20トン。
それらが基盤岩に穿たれた穴にはめ込まれている。
第二段階(先土器新石器B)では石柱は小さくなり、磨かれた石灰の床を持つ長方形の部屋に立てられた。
遺丘の隣に位置し発掘調査が待たれている構造物は1万4000年から1万5000年前のものであることがトポグラフィック・スキャンによって明らかにされた。
これはともすれば更新世を1000年遡行することになる。
先土器新石器B期が終わると遺跡は打ち捨てられた。
比較的新しい構造物にはギリシャ・ローマ時代のものも見られる。
この構造物が何に使われていたのかははっきりしていない。
発掘に携わったクラウス・シュミットは初期新石器時代の神殿だと信じていた。
ギョベクリ・テペの遺構 1963年にイスタンブール大学とシカゴ大学が共同で行った一般調査の中で初めてこの遺跡について記録された。
アメリカの考古学者ピーター・ベネディクトは遺丘に新石器時代の痕跡を認めたが、ギョベクリ・テペを新石器時代の地層が東ローマ帝国時代、イスラム時代に墓地として覆われたものだと仮定した。
調査の記録のなかでは無数の燧石(フリント)について触れられていた。
そして巨大な石灰岩の石板、すなわち丁字型の石柱の地上に現れている部分は墓標であると考えられた。
遺丘は長い間農耕に晒されてきた。
幾世代にもわたる地元住民がしばしば邪魔な石をどかしては積み上げてきた。
その過程のなかで考古学上重要な遺構も破壊された可能性がある。
1994年、先んじてネヴァル・チョリでの発掘に携わっていたドイツ考古学研究所(German Archaeological Institute)のクラウス・シュミットは次なる発掘場所を探していた。
この地域の考古学の文献を見返しているとシカゴ調査団の残したギョベクリ・テペに関する簡単な説明が目に留まり、彼はもう一度調査をしてみようと決心した。
彼のネヴァル・チョリでの経験から、記述に残されていた燧石や石板が丁字型の石柱の一部であろうと見当をつけたものだった。
翌年、彼はシャンルウルファ博物館(Şanlıurfa Museum)と共同で発掘に着手した。
すぐに巨大な丁字型の石柱が姿を見せる。
そのうちのいくつかは明らかに粉砕しようとしたような痕跡が見られた。
おそらく石柱を変哲の無い普通の岩と考えた農夫によるものである。
近くの新石器時代の遺跡ギュルジュテペ(Gürcütepe)の発掘調査の開始は2000年を待つことになった。
発掘作業の様子 層序学はギョベクリ・テペの、少なくとも亜旧石器時代から始まる幾世紀にもわたる活動の痕跡を示している。
続く時代(先土器新石器A)に建てられた構造物は紀元前10千年紀のものと特定された。
先土器新石器Bの紀元前9千年紀に建てられた小さい建物群は地中に埋まったままになっている。
いくつかの放射性炭素年代測定が行われている。
標準偏差と誤差範囲で推定される年代を以下に記す。
Hdサンプルは最も低い位置の木炭から採取され、これは実際に遺跡が使用されていた時代のものだと思われる。
Uaサンプルは石柱に付着していたペドジェネシス炭酸塩から採取、これは遺跡が放棄された時代(すくなくともこの時期には放棄されていた時代)を示す。...

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