「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」(出13:2)
日本には、生まれた子を産土神(うぶすながみ)に連れてゆく、お宮参りという習慣があります。生後三十数日目に神社にお参りし、その後、ご近所へ顔見せをします。
主イエスの誕生の時にも、同じような習慣がありました。
モーセが定めた法に従い、生まれて七日経ち、八日目に男の子は割礼します。さらに母親は三十三日間清めの期間を待って、その後、神殿にいる祭司に、子羊か鳩を捧げます。(レビ記12:1-8)。
初めての子が男の子なら、「あなたの子どもたちのうち、男子の初子はみな、贖わなければならない。」(出13:13)という法に従い、聖別して主に捧げ、贖います。主イエスもマリアの最初の男の子です。贖わなければなりません。贖いとは、何かを代わりに与えることです(天界の秘義8078-2)。
主イエスの育った家はガリラヤのナザレで、エルサレムへは約150キロ、東京・軽井沢間の距離です。これを数日かけて進み、エルサレムの神殿で祭司に捧げます。
ところが、そのエルサレムの神殿で、主がただの子ではなく、待ち望んだ救世主であるという証が、二人からされました。
なぜこの証がされたのか、またそもそも初子の聖別は、なぜ定められたのかを学びます。
初子の聖別は、モーセが定めた法です。
日本の宮参りは、氏神とご近所への顔見せと言われています。本当の意味は誰も知りません。不思議なことに、日本の宗教的ルーツはユダヤ民族と同じであるという説があり、神社の建物の配置とか神輿とか、確かに似た部分は何箇所かありますが、精密に証明されてはいません。
モーセの法を与えられたイスラエル民族にも、初子の聖別の法が定められていますが、その意味はよく知られていません。エジプトから解放された記念としか書かれておらず、その本当の意味は啓示を待つしかありません。
モーセの法は、ある民族への特別な命令ではなく、霊界の法を伝え、天界へゆく道を示したものです。
初子の聖別、「それはわたしのものである」、神様のものであるという内意を天界の教えから学びます。
初子とは、初めての子のことですが、人間や動物の子のことではありません。天界では、結婚しても、地上の結婚のように子どもが産まれるわけではないからです。
夫は「愛」で、妻は「知恵」です。そして子は「真理」です。
その「真理」が、間違いなく神様から来ていると認め、思うことが、初子の聖別の本当の意味です。
私たちは、神のことばである聖書を読み、そこから教義を通して真理を得ます。奇跡を見て信じる、ある立派な人がそう言っているから、真理だと信じる。これは、うわべだけの信仰で、まだ本物ではありません。真理自体に感動していないからです。
また教養のため聖書を読むというのも違います。
どう生きてゆくかを学ぶという目的、「目的」が大切だからです。
聖書やみことばに、心を動かされ、心から納得して、自分が生きてゆく糧として役立てる。そしてこれは真に神から来ていると心の底から感じる。そのとき、初めて内面の道が拓け、外面の道と交じって、真理を得、信仰を持つこととなります。
この状態が、初子を聖別して、捧げる状態です。神様からきたものとして聖別でき、主に感謝します。
生まれてわずかしかたたない、主イエスが神殿に来られると、何がおこるのでしょうか?
神殿に両親が連れてきた赤ちゃんのイエス様は、実は本物の神様ご本人です。地球の無数の人や動物を創り、宇宙の数え切れない星、そこに生きる全ての生き物を創った方でした。その神様が人として地上にお生まれになりました。しかし魂だけが神様です。赤ちゃんだけでは、歩くことも何かを持ち上げ、言葉をしゃべることもできません。
さらに、何かを神様に捧げ感謝することもできません。神殿で祈る対象も、そこで祈りを捧げる人も、同じ一人の神様で、一人二役では意味がありません。
そこでイエス様は二人の証人を、そこに備えられました。
その一人がシメオンでした。
シメオンという名は、聞き従うという意味を持っています(黙示録解説443)。シメオンは、敬けんで正しく、神様の導きに聞き従う人でした。シメオンは聖霊によって導かれて神殿にやってきます。聖霊とは、特別な霊の働きのことではなく、「神的真理とその神的な行いと働きであり一人の神から発するものです」(真のキリスト教139)。それは、主ご自身の働きです。つまり、主がシメオンをみもとまで呼び、シメオンは、主の代わりに証しをします。
主を見つけたシメオンは、赤ちゃんである主を腕に抱き、神を褒め称えます。そのとき、シメオンは、主の「み救い」、を見ます。「異邦人に与えられる啓示の光」と、「イスラエルの民の救い」を見ます。
これらの「国々に明かされる光」とは主から発する神的真理であり、「汝イスラエルの民の栄光」とは主がご自身について明かされ、それを受け入れる者の信仰と主の愛に関して言われています。これらすべては「栄光」と呼ばれます、なぜなら天界とそこでの光は、神的真理であるからです。「イスラエルの子孫達」は主に信仰と愛を持つ人のことを言います。(天界の秘義10574:9 [9])
主の発する神的真理が言われていますが、この神的真理のすべてはとうてい私たちには理解できるものではありません。理解できる分に応じて与えられます。この光は天界に充満し、天使たちが見ている、きらめき、まばゆいばかりの光です。この神的真理の光を、おそらくシメオン自身は見たのです。すべてを理解できるかは別として。そのため、安心してその内にある平安に向かってゆくことができました。シメオンは老人とも書かれていませんし、死にたいとも思っていません。ただイスラエルが慰められるのを待ち望んでいるだけです。そこでシメオンは、天界に満ちている神的真理の光を見て、主に信仰と愛を持つ者は、かならず慰められるという確信を持ちます。そこでシメオンは、主に感謝を捧げます。
シメオンが聖霊に導かれて神殿に来たとき、そこにいたアンナも、幼子のことを語ります。アンナは、7年連れ添った夫と死別し、そのまま神殿に棲み着き、84年間未亡人として夜も昼も断食と祈りの生活を送ってそこにいました。84年、実に永い時間です。神殿で何か役目を与えられたわけではなく、どうやって食べていたのかもわかりません。誰もが、「そういえば自分が小さい時からずっとそこにいて、親もまたおじいさんもおばあさんもそう言っていた」と思っていたでしょう。
未亡人は、善がない教会の真理を意味します。妻とは、表象的意味では真理を意味し、夫は善を意味するからです(天界の秘義4844[2])。夫を失った未亡人は、善がない教会を意味します。
本来、善は、悪を避け、隣人に良い事を行うことにあるはずです。祈りと断食をしていればいいというわけではありません。祈りと断食が、神に仕えることだと思い込んでいたため、その真理をかたくなに形だけ守っていました。
そのため、彼女は試練にいました。八十四は試練を表す四から構成されていてやはり試練を意味します。アンナは八十四歳であったと書かれていますが、正確に言えば八十四年間未亡人でした。結婚期間中の七年とそれ以前を加えると、まさに「非常に歳をとっていた」ことになります。
しかし、断食は、悪いことを避けることを意味します。善のはじめは悪を避けることでもあります。迷いながらも悪を避け続けていたのでしょう。
アンナの父が属していたアセル族は、隣人への愛を意味し(黙示録啓示438)、父の名、パヌエルの原語の意味は、神の顔を意味します。アンナは遺伝からこれを守る傾向を持っていたのでしょう。神殿という神の御前にいることをあえて選び、悩みながらも悪いことを避け、神様と対話を続けていたことが、みことばの内意から読みとれます。
そんな生活を何十年も続け、一人で孤独の中、気の遠くなる時間、神殿に住み続けていました。ある日、神殿に来る数多くの人たちから、アンナは神であるイエス様を見出します。試練の中で悪を避け祈りを捧げ続けていたアンナは、神的真理である主イエスに遭ったとたん、神的真理の光を見ることができたのでしょう。主を神と認め、自分が永年、本当に永い間かけて求めていたものだと悟ります。そして感謝を捧げることにより、主が神的真理であること証しします。
神殿に聖霊によって導かれたシメオンは聞き従うこと、神の御前で悪いことを行わず、真理を求めて祈り続けていたアンナは、二人とも、神的真理であるイエス様を認めることができました。そこで、感謝を捧げます。それは主イエスの「初子の贖い」にふさわしいことでした。
同じルカの福音書で、天使は、羊飼いたちに、「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを」しるしとして与えます。羊飼いたちとは、教える者のことです。そして、このしるしを見た者は、すべて教える者です。
わたしたちは飼い葉桶で意味される聖書、みことばの中で「産着にくるまったみどりご」を探し求めなければなりません。「産着」、とは最初の真理、すなわち無垢の真理であり、神的愛の真理という意味です(黙示録解説706-12)。無垢の真理、これは、神に捧げるべき初子、と別の意味のことを言っているわけではありません。神の愛をみことばの中で感じ、見つけ出した人には、シメオンやアンナそして羊飼いのように、これを証しするべきです。
聖職者は、みことばから、神の愛に感動して、これを信者やまだ神の愛を知らない人たちに伝えねばなりません。
親は、聖書から主イエスが私たちすべてを愛しておられるという感動を得て、それを子ども達に、伝えなければなりません。
単に、外国の言葉を翻訳しても、本人の感動がなければ、読んでいる人は、無意味な言葉の集まりのように感じます。
聖書や天界の教えを読んで、感動すれば、その感動を、私たちそれぞれが、自分以外に伝えなければなりません。求めている人に伝えます。それが「慰められることを待つイスラエル」であり、「エルサレムに贖いを待ち望んでいる」すべての人です。
主が与えられるのは、単なる哲学や応用心理学などではありません。それは神様から発している愛です。無垢の愛からすべてが発しています。神様の愛から出ていることを認め、証しして、感謝し、そして真理を知りたいと望む人すべてに伝えなさいと、モーセの法として強く薦めます。
その無垢の真理は、単なる理屈や、見、触って信じた信仰、誰かから与えられた信仰、奇跡で信じた信仰とは異なります。それは外面に留まるものでしかありません。私たちが、心から感動した真理、その内面からくる真理が、外面からくる真理、知識を活かすなら、それは本当に神様から発したものです。(天界の秘義8078-3)
シメオンやアンナのように、これを認め、感動として伝え、証しすることができるなら、日常の世界で、すべての義務をやり遂げることができます。
「主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、・・・自分たちの町ナザレに帰って行った」(ルカ2:39)。アーメン
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