ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯), by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1354525 / CC BY SA 3.0

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第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル(英: Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury, KG, GCVO, PC、1830年2月3日 - 1903年8月22日)は、イギリスの政治家、貴族。
ソールズベリー侯爵ガスコイン=セシル家の生まれ。
1853年に庶民院議員として政界入りし、1868年に爵位継承で貴族院議員に転じる。
保守党政権下で閣僚職を歴任し、ベンジャミン・ディズレーリ亡き後には保守党の党首となり、ヴィクトリア朝後期からエドワード朝初期にかけて3度にわたって首相を務めた(第1次:1885年 - 1886年、第2次:1886年 - 1892年、第3次:1895年 - 1902年)。
民主主義を嫌う貴族主義的な人物ながら漸進的な内政改革を行い、外交面では帝国主義政策を遂行して大英帝国の更なる拡張を果たした。
彼の政策は多くがジョゼフ・チェンバレンとの連携の影響を受けていた。
1902年に退任し、甥にあたるアーサー・バルフォアが首相・保守党党首の地位を継承した。
1865年まではソールズベリー侯爵家のヤンガーサンとして卿(Lord)の儀礼称号で呼ばれ、侯爵家の嫡男となった1865年から爵位を継承する1868年まではクランボーン子爵(Viscount Cranborne)の儀礼称号で呼ばれた。
本項でもそれに従うものとする。
ハットフィールドを領する名門貴族ソールズベリー侯爵家の三男として誕生した(→出生)。
イートン校、オックスフォード大学で学んだ後、1853年に保守党候補としてスタンフォード選挙区から出馬して庶民院議員に初当選した(→庶民院議員に当選)。
1865年に兄の死でソールズベリー侯爵家の後継ぎの儀礼称号クランボーン子爵を継承した。
1866年に成立した保守党党首ダービー伯爵の第三次内閣にインド担当大臣として入閣したが、首相ダービー伯爵や保守党庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリが推し進めようとした第二次選挙法改正に反対して、すぐに辞任した(→第三次ダービー伯爵内閣インド担当相)。
1868年にダービー伯爵が病気で引退し、ディズレーリが首相・保守党党首職を継ぐが、彼は1874年まで保守党内で反ディズレーリ派の立場を取り続けた(→反ディズレーリ派として)。
1868年に父の死でソールズベリー侯爵位を継承し、庶民院から貴族院へ移った。
1874年に成立した第二次ディズレーリ内閣にインド担当相として入閣することでディズレーリと和解。
ランカシャー綿産業の利害を代表してインドの関税を廃止させ、またロシア帝国の南下政策をにらんでアフガニスタンに強硬姿勢をとるようインド総督に訓令した。
ベンガル大飢饉に際してはベンガルからの穀物輸出制限の要請を拒否して批判を集めた(→インド担当大臣として)。
バルカン半島をめぐって露土戦争が勃発した後、外相ダービー伯爵(元首相の息子)が対露開戦に反対して辞職するとその後任として外相に就任。
各国との調整の実務にあたり、首相ディズレーリとともに参加したベルリン会議の成功に貢献した(→外務大臣として)。
ディズレーリ内閣は1880年の総選挙でウィリアム・グラッドストン率いる自由党に敗れて退陣し、ディズレーリはその翌年の1881年に死去した。
以降保守党は1885年の政権奪還まで、貴族院保守党をソールズベリー侯爵、庶民院保守党をサー・スタッフォード・ノースコート准男爵が指導するという二党首体制をとったが、ノースコートの庶民院における権威が失墜したため、やがてソールズベリー侯爵が党全体の党首たる地位を固めていった(→貴族院保守党の指導者として)。
1885年にアイルランド国民党党首チャールズ・スチュワート・パーネルと連携して第二次グラッドストン内閣を倒閣することに成功し、代わって保守党政権第一次ソールズベリー侯爵内閣を発足させた。
パーネルに配慮してアイルランド小作人に自作農への道を開くアシュバーン法を制定したが、総選挙の敗北を経て、アイルランド国民党がグラッドストンとの連携に動いた結果、1886年1月には退陣...

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