濃霧の中で両軍は2時間ほど対峙し続けていた。やがて、霧も薄くなってきた頃、福島隊の横を井伊直政と松平忠吉の小隊が通り抜けようとしていた。家康から先鋒を任されたはずの福島正則の家臣可児吉長が呼び止めて詰問するが、「物見」と称して福島隊の前方へ張り出した。直政の小隊は、西軍の主力である宇喜多隊に向けて発砲、対する宇喜多隊も直ちに応射。そこに、井伊隊の抜け駆けに激怒した福島隊が宇喜多隊に突撃。ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。
福島隊や加藤隊、井伊隊、本多隊など数多くの東軍部隊が、西軍部隊で最強を誇る宇喜多隊に突撃したが、宇喜多隊の猛反撃により相次いで後退。それでも東軍部隊は何度も宇喜多隊に突撃し、関ヶ原一の激戦が展開された。石田隊には黒田隊、細川隊が攻めかかる。士気が高い部隊同士の戦いであり、戦いは熾烈を極めた。石田隊は大筒などを用いて、必死に東軍部隊を抑えていた。やや遅れて大谷隊には藤堂隊、京極隊が、小西隊には田中隊、織田隊がそれぞれ攻めかかる。激戦をこの地で体験した太田牛一は次のように記している。
敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う―
三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げた。さらに島津隊に応援要請の使いをだす。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは、宇喜多、石田、小西、大谷の3万3,000ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に運んでいた。ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利は確定的となるはずであった。しかし、島津は使者が下馬しなかったため、無礼という理由で応援要請を拒否、また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、内応済みの吉川広家に道を阻まれ、参戦できずにいた(宰相殿の空弁当)。結局最後まで南宮山の毛利軍ら3万3000もの大軍は参戦できず、直後に起きる小早川秀秋の裏切りと並ぶ西軍の敗因となる。
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