首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1502960 / CC BY SA 3.0

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首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑で処刑されるヒュー・ル・ディスペンサーを描いたジャン・フロワサールの手稿 首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑(くびつり・ないぞうえぐり・よつざきのけい、英:Hanged, drawn and quartered)は、イングランド法における反逆罪(大逆罪)で有罪判決を受けた者に対する最高刑(死刑)である。
1351年反逆法の制定後に1352年から施行されたが、記録に残る最初の執行はヘンリー3世の時代(1216-1272年)であった。
罪人はハードル(木枠)に固定された状態で馬に引きずられながら処刑場に連行され、まず(死の寸前まで)首を吊られた後、性器を切除され、腹を裂かれ、その後、断首された後に四つ裂きにされた。
その死体はしばしばロンドン橋など国の目立つ場所に晒し者にされ、反逆を企む者への見せしめにされた。
公序良俗の観点から、大逆罪で有罪判決を受けた者が女性の場合には火あぶりの刑に処された。
判決の厳しさは、罪の重さに応じて判断された。
イングランド王室の権威への攻撃として大逆罪はもっとも極端な刑罰を必要とする卑劣な犯罪だと見なされていた。
刑罰が見直されて不名誉な死を免れた一部の受刑者を除けば、数百年の間に大逆罪で有罪となった者たちの多くは、この刑で裁かれることとなった。
この中にはエリザベス朝時代のイングランド人のカトリック司祭や1649年のチャールズ1世に対するレジサイド(王殺し)に与した者たちへの処刑も含まれる。
大逆罪を制定した議会立法はイギリスの法令集に現在でも残っているが、19世紀に行われた長い法改正において、まず引きずり回し・死ぬまでの首吊り・死後の斬首・四つ裂きの刑(drawing, hanging until dead, and posthumous beheading and quartering)に変更された後、1870年にイギリスにおいて廃止された。
1998年には反逆罪における死刑も廃止された。
マシュー・パリスの『クロニカ・マジョラ』に描かれているように、ウィリアム・デ・マリスコは馬に引き回されて処刑された。
中世盛期のイングランドにおいては、反逆罪を犯した者は引きずり刑や絞首刑などの様々な方法で罰せられた。
13世紀には、内臓抉り、火炙り、斬首、四つ裂きなどのより残忍な刑罰が導入された。
13世紀のイギリスの歴史家マシュー・パリスは、1238年にヘンリー3世を暗殺しようとした「とある武装した学のある男(大郷士の資格を持つ学者、armiger literatus)」のことを記録している。
この中で暗殺者は「引きずり刑を受けてバラバラになった後、斬首され、その死体は3つに分けられた。それらはイングランドの主要都市に一つずつ引きずり回された上で、強盗に使われる晒し台に吊るされた」と、どのように処刑されたかを詳細に残している。
この暗殺者は王室の庇護下にあった男を殺してランディ島へ逃亡した無法者ウィリアム・デ・マリスコ(William de Marisco)によって送られた者と思われた。
デ・マリスコは1242年に捕らえられ、王命によりウェストミンスターからロンドン塔へ引きずり刑を受けた後に、そこで処刑された。
まず、絞首刑に処されて死亡が確認された後、内臓をえぐり出され、焼かれ、そして四つ裂きにされ、それら死体の断片はイングランドの主要都市に送られた。
こうした刑罰はエドワード1世の時代に、より頻繁に記録が残っている。
ウェールズのダヴィズ・アプ・グリフィズは国王に反旗を翻し、ウェールズ王子とスノードン公を名乗ったが、捕らえられ、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑を受けた最初のイングランドの貴族となった。
ダヴィズの反乱はエドワード1世を激怒させ、過去に例のない厳罰を要求した。
この結果、1283年の彼の拘束と裁判の後、まず反逆罪で馬による引きずり回し刑で処刑場へと連行された。
そしてイングランドの貴族を殺した罪により生かされたまま首を吊られた。
次にその貴族殺しを復活祭に行った罪により、内臓抉り及び、取り出した臓物を焼く刑が執行された。
そして、国中の様々な場所で王殺しを企てた罪により、その遺体は四つ裂きにされて国中に送られ、頭部はロンドン塔の上部に置かれた。
同様の運命を辿って苦しみを与えられたのがスコットランド反乱の指導者であったウィリアム・ウォレスであった。
1305年に捕らえられ裁判に...

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