犬養毅, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=66728 / CC BY SA 3.0

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犬養毅

犬養 毅(いぬかい つよし、1855年6月4日(安政2年4月20日) - 1932年(昭和7年)5月15日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂、子遠。

中国進歩党代表者、立憲国民党総理、革新倶楽部代表者、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任した。

安政2年4月20日(1855年6月4日)、備中国賀陽郡川入村(現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男としてうまれる(のちに犬養と改姓)。父は水荘と称した備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士である。もともと犬飼家は庭瀬藩から名字帯刀を許される家格であったが、毅が2歳のときに父がコレラで急死する不幸に見舞われたため、生活はかなり苦しかったという。

同藩の経世学者楠之蔚の下で漢籍をおさめたのち、1876年(明治9年)に上京して慶應義塾に入学し、一時共慣義塾(渡辺洪基と浜尾新主宰の塾)に通い、また漢学塾・二松學舍では三島中洲に漢学を学んだ。慶應義塾在学中に、郵便報知新聞(のちの報知新聞)の記者として西南戦争に従軍した(抜刀隊が「戊辰の仇!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。1880年(明治13年)、藤田茂吉とともに、慶應義塾卒業前に栗本鋤雲(郵便報知新聞社主筆)に誘われて記者となる。

明治10年代はじめごろに豊川良平と東海社を興し、『東海経済新報』の中心として保護主義経済(保護貿易)を表明している(田口卯吉らの『東京経済雑誌』は自由主義を表明し論戦となった)。統計院権少書記官を経て、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。また大隈のブレーンとして、東京専門学校の第1回議員にも選出されている。『日本及日本人』などで軍閥、財閥批判を展開した。

1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を打ち立てる。

のちに中国地方出身議員とともに中国進歩党を結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派を組んでいた)が、進歩党・憲政本党の結成に参加、1898年(明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。

1913年(大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相・桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸をなめながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後、革新倶楽部となる)。

犬養は政治以外にも、神戸中華同文学校や横浜山手中華学校の名誉校長を務めるなどしていた。このころ、東亜同文会に所属した犬養は真の盟友である右翼の巨頭頭山満とともに世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジー、ネルー、タゴール、孫文らと並び称される存在であった。

1907年(明治40年)から頭山満とともに中国漫遊の途に就く。1911年(明治44年)に孫文らの辛亥革命援助のため中国に渡り、亡命中の孫文を荒尾にあった宮崎滔天の生家にかくまう。書や漢詩にも秀でており、書道家としても優れた作品を残している。漢詩人の井土霊山は『木堂雑誌』に掲載された記事で犬養の手紙を「先づ上手」と賞している。

犬養は第2次山本内閣で文相兼逓信大臣を務めたあと、第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても逓信相を務めた。しかし犬養は、ほどなくして小政党を率いることに限界を感じて革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ、自身も政界から引退し、富士見高原の山荘に引きこもった。しかし世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させ続けた。
さらに、政友会総裁の田中義一が没すると後継総裁をめぐって鈴木喜三郎と床次竹二郎が激しく争い、党分裂のおそれが出た。党内の融和派が引退状態の犬養担ぎ出しに動き、嫌がる犬養を強引に説得した。

1929年(昭和4年)10月、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれた。
同12月8日、日光東照宮の板垣退助像建立のときには...

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