出典:EPGの番組情報

英雄たちの選択「明治日本を襲った試練 ~伊藤博文とロシア皇太子襲撃事件~」[字]

明治24年、訪日したロシア皇太子が襲撃される!大国ロシアからの報復を避けるため伊藤博文はギリギリの選択を迫られた。明治日本を襲った外交危機、その思わぬ結末とは?

詳細情報
番組内容
1891年春、ロシア皇太子の歓迎祝賀が一転、明治政府にとって深刻な外交危機へと急変する!皇太子が襲撃された「大津事件」である。ロシアからの賠償金や領土割譲の要求を避けるべく、伊藤博文が対策に奔走する。争点となったのが犯人の処罰。必ず「死刑」にしたい政府と、法律上は「無期懲役」が限度だとする司法が対立。国際社会が注目するなか、優先すべきはロシアとの外交か、司法の正義か?ジレンマに陥る伊藤の選択とは?
出演者
【司会】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊,【出演】伊藤之雄,山口真由,真山仁

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

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  19. 対応
  20. 当時

解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)

NHK
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明治24年 ある人物の来日を

国を挙げて祝った際の記録が
奈良に残されている。

こちらの史料は…

ロシア皇太子 ニコライ
後の皇帝ニコライ2世の訪日。

その歓迎行事の予定を記した
公文書である。

奈良訪問は 5月12 13日の 2日間。

その間のスケジュールが
びっしりと書き込まれている。

昼は 東大寺 興福寺 法隆寺など
有名寺院を観光。

夜は 宿泊する旅館の庭で
仕掛け花火を披露するなど

手厚いもてなしが予定されていた。

しかし この歓迎は
実現することなく終わる。

奈良訪問の前日

ニコライの身に
重大な事件が起きてしまったからである。

滋賀県大津で

ニコライは 沿道警備に当たっていた
警察官に 突如襲われ 負傷。

世に言う大津事件である。

事件は 即座に国際社会が
注目するところとなった。

当時のロシアは ヨーロッパの大国。

その陸軍は 世界最強とたたえられていた。

日本が 対応を誤れば

巨額の賠償金や領土割譲を
要求されるおそれがあった。

この時
明治政府の中心人物として

事態の収拾に奔走したのが
伊藤博文である。

伊藤に突きつけられたのは

ニコライを襲った犯人を…

という選択。

しかし 大日本帝国憲法を
制定したばかりの日本にとって

それは 近代国家としての看板を
自ら汚しかねない選択でもあった。

スタジオには 各界の専門家が集結。

伊藤と明治政府の対応を徹底分析!

近代日本が初めて直面した
重大な外交危機

大津事件の実像と
伊藤博文の苦渋の選択に迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

その時 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今日 取り上げるのは こちらです。

大津事件です。

明治24年 日本を訪れていた
ロシア皇太子 ニコライが

滋賀県の大津で 突如 警備の警官に
切りつけられたという事件なんですが

磯田さん。 今日の この大津事件の
どんなところに注目していますか?

大津事件といえば
ロシアとの関係悪化を恐れたですね

明治政府が裁判所に圧力をかけて

で まあ 司法介入をする
という問題として…

国際政治の中において
この大津事件を考えると。

ああ 外交ですか。
はい。

日本は まあ 近代国家として
歩き始めたばかり

よちよち歩きと言ってよくて。

まだ欧米の列強に比べればですね
小国ですし その自覚もあると。

例えるなら まだ…

そんな状態で 一歩間違えて よその国

特にロシアのような大国と
事を構えるだの

威嚇を受けるのだっていうことになると

もう 国家存亡の危機に陥るかも
という状況です。

その時に…

現代にも通じるテーマですよね。

さあ それでは 大津事件の勃発と

その直後の政府の対応から
見ていきましょう。

明治24年
日本は 空前絶後の大歓迎に沸いていた。

ロシア皇太子 ニコライの訪日。

それは シベリア鉄道の
起工式が行われる

ウラジオストクへと向かう旅の途上で
実現したものだった。

明治政府が ニコライを 国賓として招待し
1年近く前から準備が進められた。

ニコライが滞在したホテルの客室が
この寺に移され

今も大切に保存されている。

ニコライには 当時 京都で評判を呼んだ
常盤ホテルの

最高級の和室が用意された。

鶴や 孔雀などが描かれた
金ぱくのふすま絵。

初めて訪れる日本を
ニコライは 心から楽しんだという。

ロシアは 東ヨーロッパから
極東に至る大国で

当時 軍隊の規模は
世界最大であった。

更に この年
首都 サンクトペテルブルクから

極東のウラジオストクまでを結ぶ
シベリア横断鉄道の建設が決定。

ロシアのアジア進出が懸念されていた。

明治政府は
ニコライ皇太子を歓待することで

ロシアと友好的な関係を築こうと
考えたのだ。

ニコライは 長崎から鹿児島

そして 神戸 京都と各地を訪れ
名勝を楽しんだ。

琵琶湖見学を終えたニコライ一行は
京都に向かった。

そして 午後1時50分ごろ

旧東海道である ここ大津市京町2丁目に
通りかかったところで 事件は起きた。

この時のてんまつを
ニコライは 日記に詳細に記している。

「私を乗せた人力車は
狭い道路を左へと曲がった。

その時 右のこめかみに
強烈な衝撃を覚えた」。

「振り返ると 醜く顔をしかめた巡査が
両手でサーベルを握って

私に再び襲いかかろうとしていた」。

「とっさに
『貴様 何をするのか!』とどなり

人力車から舗装道路に飛び降りた」。

「この変質的な犯人は
なおも私を追いかけた。

傷口から流れる血を 手で押さえながら

私は いちもくさんに逃げ出した」。

事件の凄惨さを物語る貴重な資料が
今も保管されている。

事件直後 ニコライが応急手当てを受けた
民家に 残されていたものである。

ニコライの血の痕が
はっきりと残っている。

一命は取り留めたものの ニコライは
頭部に2か所 深い傷を負った。

そして もう一つ。

犯行に使われた サーベル。

刃渡り およそ 58センチメートル。

ところどころにある 刃こぼれは
凶行の際に 出来たものと思われる。

ニコライを襲ったのは よりによって
警備に当たっていた 滋賀県の巡査。

津田三蔵という男だった。

動機については

ニコライは 日本侵略を意図する
ロシアのスパイだと信じたことや

あるいは 精神錯乱も疑われたが
真相は不明である。

すぐさま
大津から東京に

事件を知らせる
電報がもたらされる。

明治政府は 大混乱に陥った。

急きょ 閣僚会議が開かれ

松方正義総理大臣を はじめ

おもだった閣僚が 対応策を協議した。

ロシアから賠償金の請求や

領土の割譲が
求められるのではないか。

明治政府 始まって以来の
外交危機に

誰もが不安を口にした。

事件当日 政界の実力者 伊藤博文は
箱根に とう留していた。

松方は すぐさま電報を送り

ロシア通でも知られる
伊藤の助力を仰いだ。

自らロシアを視察し 目にした

首都 サンクトペテルブルクの
巨大で壮麗な建築物。

更に 当時 世界最強と言われた陸軍。

伊藤はロシアの国力と軍事力を
身をもって知っていた。

知らせを聞いた伊藤は 東京へと急いだ。

深夜1時過ぎに到着すると すぐさま
皇居に参内して 明治天皇に謁見。

深夜に極めて異例のことだった。

明治天皇は ニコライを見舞うため
自ら京都に赴く考えだった。

伊藤には
ロシアとの関係が破綻せぬよう

万全の手を打つように 命じた。

その後 伊藤は夜通しで
閣僚たちと協議を重ねた。

そのまま朝を迎えた 翌12日早朝。

ニコライが療養している
京都へ向かう明治天皇を

新橋駅で見送った。

天皇と政府は 異例の皇室外交で
事態の収拾を図ろうとしたのだ。

明治天皇がニコライと面会できたのは
翌5月13日だった。

場所は 京都の常盤ホテル。

この時の明治天皇の様子を
ニコライは こう記している。

ニコライは この事件で
日本を恨むようなことはないと

明治天皇に告げた。

これを知った伊藤と明治政府は
事件発生以来 初めて

「一と先 安神」したという。

しかし ロシア本国の
正式な見解は まだ 発表されておらず

伊藤博文は 更なる対応を
迫られることとなる。

今回も
さまざまな分野の専門家の皆さんに

お越しいただいています。
よろしくお願いいたします。

(一同)お願いします。

まずは 日本政治外交史がご専門の
伊藤之雄さんです。

よろしくお願いいたします。
はい。

伊藤さん。 大津事件が
伊藤博文や明治政府に与えた衝撃。

これは やはり
相当なものだったんでしょうか。

そうですね。
とても大きいと思います。

つまり
最悪の場合 もしロシア皇太子が

亡くなってしまったらっていうのが

状況が分かりませんから。

そうすると…

そうすると
やっぱり 一番問題になるのは

海軍力なんですね。

陸軍は まだ
シベリア鉄道が完成してないので

そんなに送れないから
ともかく海軍力が大変で。

ロシアは 8, 000トンとか1万トンの
戦艦を持っています。

これは 装甲も厚いし
大砲の距離も遠いし 大きいんですね。

だから…

日本は経済的に衰退して
ひどい目になってしまうという。

そして 作家の真山 仁さん。

真山さん
事件直後の この伊藤や政府の動きで

真山さんが注目するのは
どういうところでしょう。

まあ
国家の一大事が起きたわけですよね。

で こういう時は
やっぱり最悪を考えて

即断即決で
スピードが一番大事だと思うんですよ。

で あの 今の政治家に
こんな人はいないんですけど

この時の伊藤の
やっぱり 動きは

まさに その教科書みたいな動き方。

だから午前1時に
まあ当時の その天皇陛下に対する

そのスタンスは
今の時代とは 全然違うはずで。

そんな時間に たたき起こすなんて
ありえないって思うと思うんですが。

そこに 本気度が やっぱり
すごい出ているんだと思いますね。

スピーディーだったと。
はい。

そして 法律家の山口真由さん。
よろしくお願いいたします。

山口さんが 注目するところは
どういうところですか?

あの 明治天皇の主体的な
動きというのには

非常に
注目を覚えます。

国家を挙げての歓迎だったので
見逃されがちなんですが

このニコライ皇太子
っていうのは

公的な外交使節というよりも
むしろ

私的なご旅行だったと
思うんですね。

ですから
天皇陛下としては

ご自身の私的な賓客という
お気持ちも

あったんだと思うので 自身の臣民が
賓客を傷つけたっていう この

非常なジレンマの中で 自ら主体的に
この不祥事を収集しなくては。

まあ ちょうど 38歳の
知力体力に満ちあふれた陛下が

そういう主体的な覚悟のもとで
お見舞いに行くとか

対応をされているのが
非常に印象に残りました。

磯田さん。 この事件が
伊藤や政府に与えた衝撃というのは

どのように考えていますか。
明治24年の日本って まだ弱い国です。

こういうバリアーが張れてない。

先ほど
伊藤先生の話にもあったように

もう海軍力が足りないわけです。

もう とてもじゃないけど…

あの~
もう一回 事を構えることになったら…

…という中で やっちゃったかという

恐らく 恐怖を抱えていたわけですね。

で 2つの恐怖があって
一つは 戦争や賠償金ですよね。

あと もう一つは
条約改正をしようとしてますから…

それで この始末が ちゃんと
すぐ つけられないようであれば

やっぱり これは もう…

維新以来 少しずつ
一等国に入ろうと頑張ってきたものが…

これの恐怖もあったと思いますね。

磯田さん。 でも
この午前1時過ぎに 明治天皇に会う…。

でしょ? これ 迅速なんですよ。

あのね この時代の政治家はね
試験で選ばれてないんですよ。

あの迅速って言えば
新選組の刃ほど迅速なものはないですよ。

もう すぐ出動してきて
すぐ斬りますからね。
確かに。

で これを逃げた人たちが
長州のリーダーになってるわけですよ。

で 逃げられない人は
もう死んで いないですから。

もしくは 友情にあつくて

ここで 応援に駆けつけようなんて人も
死んでますから。

リアリストです みんな 生きている人は。
特に 長州は。

それと また 宮中というものに
すぐ駆けつけられる その…

事前準備って言いますかね。
まあ 明治天皇の側近には

藤波さんとかいうような人たちが
こう 木戸番として いるわけで。

で こういう人たちを
やっぱり もう よく知ってて。

もう本当に 火急の用なんだ。
これは 国家の火急の用なんだと言って

参内して まあ 会うと。

そこが 伊藤のすごさですよね。
だって 首相じゃないですよね。

首相は 松方ですから。
そうですよね。

これ ニコライ皇太子も
明治天皇が すぐさま来てくれたのは

結構 大きそうですよね。
でしょうねえ。

ビックリしたんだと思うんです。
恐らくですね ロシアはですね

日本よりも はるかに文明国なんですね。
しかし

もっと 皇帝の行動はモッタリしていて
こんな深夜に会うこともありえないし

やっぱり
次の日に すぐ東京をたってですね

十数時間かけて 汽車に乗って
で 会いに来てですね

その夜にでも お伺いしましょうかと
言ったけども

やはり 傷に障るので
明日にしてくださいと言われて

その明日の… その次の日の午前中に
会ってるんですね。

まあ トラブル・シューティングでは
絶対的にやらなきゃいけないことですよ。

最近 本当に
そういう場面がなくなりましたけど。

確かに。 あの 延ばし延ばしにすると
より こう

泥沼にハマっていく状態ですものね。
毎回 それが原因で 腹が立つんですよね。

「何で すぐ謝りに来ないんだ!」が
怒りの原因として移動していくので。

だから これは すごい重要な…。
うん すばらしいと思いますね。

さあ このあと 大津事件は

犯人の津田三蔵の処罰を巡る問題へと
発展していきます。

そこで 伊藤と明治政府は
重大な選択を迫られることになります。

ロシア皇太子が 極東の島国で
襲われたという衝撃的なニュースは

事件翌日の夕方には
ヨーロッパ中を駆け巡った。

第一報がもたらされたロシアでは
大きな混乱が生じていた。

事件を起こした津田三蔵への非難の声は
日本でも異様な高まりを見せた。

山形県のある村では
こんな条例まで決議される。

「津田という姓を名乗ること

および 三蔵という名前を命名することを
禁止する」。

総理官邸では 緊急会議が開かれ

松方や伊藤たちが集まった。

議題の中心は
犯人 津田三蔵の処罰について。

当時の法律では

被害者が死亡していなければ

謀殺未遂罪による無期徒刑までが
限度だった。

そこで 刑法第百十六条 すなわち

「天皇三后皇太子ニ對シ
危害ヲ加ヘ

又ハ加ヘントシタル者ハ
死刑ニ處ス」という

いわゆる 大逆罪の適用が議題に上る。

ロシアとの関係悪化を恐れた伊藤をはじめ
出席者全員が これに賛同し

犯人は死刑と意見がまとまった。

会議後 松方総理は

現在の最高裁判所にあたる
大審院の院長 児島惟謙と面会し

大逆罪適用の方針を伝えた。

すると 児島院長は猛反発。

法律の精神に反して…

松方総理は 声を荒らげ
児島に翻意を迫った。

国家あっての法律だと主張する松方と
司法の正義を守ろうとする児島の会談は

平行線をたどった。

実は この時 政府には

津田の死刑に固執せざるをえない事情が
あったことが

後の外務大臣 林 董の回顧録に
記されている。

「外国皇族に対し
危害を加えんとする者に

刑法第百十六条の制裁を加うる法律を

定むることを約したる」。

公的な記録は残されていないが
林によれば

青木外務大臣と
駐日ロシア公使 シェービチの間で

ニコライ皇太子の身に
何かあった場合は

刑法百十六条の大逆罪を適用するという
密約があったというのだ。

そのころ 伊藤は ニコライを見舞う
明治天皇と合流するべく

京都へ向かっていた。

この時 伊藤は ジレンマに陥っていた。

2年前の明治22年
大日本帝国憲法が発布され

明治日本は
近代国家としての第一歩を踏み出した。

最大の課題は 列強各国と結んだ
不平等条約の改正であった。

これは 伊藤と共に憲法作成に携わった

井上 毅が
伊藤に送った書簡。

「日本刑法百十六条ハ

外国ノ君主 及ビ 皇族ニ
援引スベカラズ。

刑法ヲ枉ゲルコトアラバ

将来永久ニ 刑法ヲ以テ
外国人ヲ統御スル国権ヲ失ウ」。

「法律を拡大解釈して
津田を死刑にすれば

欧米諸国は
日本を近代国家ではないと見なし

条約改正に悪影響を及ぼす」というのだ。

日本の動向に 世界の注目が集まる中

大津事件に どう対応するか
伊藤は 選択を迫られる。

その心の内に分け入ってみよう。

ロシアは 国力も軍事力も
日本を はるかに りょうがする

世界有数の大国。

ここで対応を誤れば
賠償金や領土の割譲を要求されるだろう。

最悪の場合
戦争になる可能性だって 捨て切れない。

それだけは 何としても避けねばならない。

それに ロシア公使とは
事前に 密約を交わしてしまっている。

今更「約束は守れない」などと
どうしてロシアに言えようか。

政府の誰もが
「死刑しかない」という意見だ。

中には
過激なことを言いだす者までいる。

伊藤の手記によれば

事件の翌日
閣僚の後藤象二郎と陸奥宗光が

伊藤に こう進言している。

「裁判で死刑にするのが
難しければ 一策ある。

金を投じ 刺客を使って 犯人を殺し

病死だと発表すれば
簡単に済む」。

これに対し 伊藤は こう答えている。

「そのような無法は
許さん。

人に語るだけでも
恥ずかしいと思え」。

さすがに
獄中で暗殺するなど もっての外だが

やはり 津田は死刑にする以外 道はない。

それには
大逆罪を適用するしかあるまい…。

だが 児島の主張が正しいことは 明白だ。

大逆罪の適用は
法律を曲げなくてはできない。

「大日本帝国憲法」を発布して まだ2年。

あれほど心血注いだ立憲国家への道を
私自身が曲げることになるまいか。

なんとか 法律の範囲内で
処理できないか…。

戒厳令を発して
軍法会議で裁く

あるいは
天皇陛下の緊急勅令による処分

という手もあるかもしれない。

もし ここで大逆罪を強引に適用すれば

欧米諸国は どう思うだろうか。

日本は 自ら決めた法律すら守らない
見せかけの近代国家にすぎないと

信頼を失い
条約改正にも悪影響を及ぼすやもしれぬ。

やはり 別の道を探るべきなのか…。

ロシアとの外交を重視するのか
法治国家として 原則を守るべきか

伊藤博文は 選択を迫られていた。

皆さんに 選択を伺う前に

当時 犯人 津田三蔵を巡っての
国内の反応について

ちょっとお話ししたいんですけれど
名前が 禁止されたり…。

なってましたね!
ねえ!

しかも 山形ですよ。 そうですねえ。
はい。

そして あの暗殺まで議論されたりと

その国内の「津田憎し」の声っていうのは
かなり高まってしまってたんですね。

すごいですね。 まあ 一つには…

あと 今と ちょっと変わらないなあと。

日本人は そうなのかなあと思うのがね…

ああ そうなんですね。

ロシア皇太子が けがをしたから

もちろん 歌舞音曲は禁止だし
お祭りは延期だし

株式市場や 会社の休みにまで
影響してるんですよね。

そんなに! 自粛だ! 自粛だ! と。
ええ。

当時の国民は やっぱ 明治維新後は
生活はですね

あんまりですね
よくならなかったんですが

まあ 明治20年前後からは
少しずつ こう よくなってきて。

まあ ようやく
こういう… ここまで来たのに

このロシアとのですね 下手をすれば
戦争とか そんなもので

めちゃくちゃになるんじゃないか
っていう。

まあ そういうことからですね
「津田憎し!」と。

まあ 我々の生活を どうしてくれるんだと
もし変なことになったらっていう。

そういう思いが
うわっと出てきたんだと思いますね。

さあ それでは選択にまいりましょう。

ロシアとの関係悪化を避けるため

法律を拡大解釈してでも
大逆罪を適用するのか。

それとも 法の原則は あくまでも曲げず
大逆罪を適用しないのか。

伊藤博文は 選択を迫られます。

皆さんが伊藤の立場だったら
どちらを選択するでしょうか。

まず 真山さん。
どちらを選択しますか?

私は
選択1の「大逆罪を適用する」を選びます。

ポイントはですね
この伊藤の選択であるということです。

つまり 政治家の選択。

戦争をするかどうかっていうことが

まあ 彼にとっては
最大の問題なわけですよね。

で 相手が どういう手を打ってくるか
全く分からない状態であれば

最悪をを考えるべきで。

ってなると ここまで
即断即決してきたわけですから

カードとしては…
法律を あえて破って。

カードとしては 絶対に… 一番厳しい
その提案をするっていうのが

伊藤の やっぱりやるべきことで。

う~ん。 大逆罪を適用する。

はい。 山口さんは どちらを選びますか?

私も 結果的には
1の「大逆罪を適用する」です。

解釈として大逆罪を適用するのは
ちょっと厳しいと思うんですね。

さすがに 法律家の観点から言うと。

ただ それを正当化できる根拠は
まあ 憲法上は 2つ少なくともあって。

1つ目は やっぱり戒厳令ですよね。

まあ 臨戦態勢の一歩手前なので。

戒厳令 ちょっと大げさかなあと
私も思います。

で 2つ目の方は
やっぱり 緊急勅令だったと思いますね。

で 緊急勅令っていうのは
まあ 憲法にも規定がありますし…

私 緊急勅令で やること
できたんじゃないかと思いますし

伊藤博文公が まあ 「大日本帝国憲法」

あれだけ お作りになったわけですから
それを知らないわけはないと思ってて

これ どうしても不思議だったんですね。

で 私が 今回推測したのは

恐らく その当時
こう世論が 割と沸騰していましたと。

で その世論が
急激に ナショナリズムの方にいって

その弱腰外交批判みたいな形に
なっていって。

…というふうに
私は 思ったんですけど。 なるほど。

伊藤さんは どちらを選択しますか?

私はですね
「大逆罪を適用する」という立場です。

まあ しかしながらですね
条件付きなんですね。

条件付きというのは

ロシア皇太子の傷の状況が
どうなのか分からない。

まあ だから 最悪の場合ですね
死ぬとか

それから 後遺症が残るような
重い傷害であったら

大逆罪を適用するしか しょうがない
というか…。

あるいは 緊急勅令という場合も
あるかもしれないけれども。

まあ どっちにしても 津田三蔵を
死刑にすると。

その場合 先ほどVTRにもありました
その法律の拡大解釈ということは

まあ やむをえないと
考えていいんでしょうか?

そうですね! まあ もちろんですね
法制官僚たちはですね

ロシアが同じように…
フランスで同じことが起こった時に

フランスは そんなことをしなかったとか
そういうことを言うんですね。

しかし それは フランスは列強の一角で…

この問題を巡って…

それは こういう事件を起こしたのは
日本の責任だし

まあ 別にですね
我々が関知することは ないと。

まあ それぐらいですね
厳しい国際状況っていうのを

伊藤は 一番よく知っているんだ
と思います。

さあ 磯田さんが 伊藤博文だったら
どちらを選択しますか?

僕はね 2のね 一人だけかもしれないけど
「大逆罪を適用しない」!

皆さん
「適用する」だったんですけれど…。

多分
どうも ニコライの様子を見ていれば

何か変なことを仕掛けてくる相手では
なさそうだというのが見えてくる。

これは 大丈夫かもしれないと。

あと やっぱり…

これで傷つけられて 歓迎もしてて
天皇も来て謝ってるのに

金を取ろうとしてるっていうことを
踏み切るかどうかっていうと

多分 まけてくれる可能性があると。
なるほど。

そこに賭けようと。 彼らの騎士道精神に。

それと もう一つが その…

意外と リスクはあるんですけど

これ 法に基づいて きちっと処断したと
書いてもらえる可能性もなくはない。

危険度はありますけど。
真山さん この話 聞いて いかがですか。

いや まあ あの… リスクを
どう計算するかっていうところで。

これ もし例えば あの時 戦争になったら
日本って どうだったんですかね?

相当 苦しいでしょうね。
恐らく ロシア側は 要塞砲がない…

極めて… 例えば
工業力に影響するようなところへ

長距離の砲弾をもって
焼夷弾等々で焼き払う。

それを津々浦々でやるから
相当な都市が焼き払われて

もう 日本は あの…
相当 これ 苦しいですよね。

…だとしたら 私が政治家だったら
やっぱり ここは

もう最大限に ごめんなさいすると
思いますね やっぱりね。

さあ それでは 伊藤博文と明治政府の
選択をご覧ください。

5月16日 ロシア本国からの情報が
伊藤に もたらされた。

ロシア皇帝は
今回の事件に関して

日本政府に 一切

賠償を要求しない
というのである。

伊藤は すぐさま 駐日ロシア公使
シェービチに 使いを送った。

そこで 犯人の処遇について
ロシア公使としての意見を求めると

シェービチは こう答えた。

シェービチの返事を聞いた伊藤は
こう書き残している。

伊藤が選んだのは
「大逆罪を適用する」であった。

京都御所の重臣会議で
大逆罪適用の方針が決定。

大津の地方裁判所から
審理が取り上げられ

大逆罪を裁くことができる大審院での
審議に変更する手続きが進められた。

伊藤は 松方総理を通じて 児島惟謙に

大逆罪を適用して
津田を死刑にすると通告。

同時に 政府による裁判干渉が行われた。

ついに 裁判官たちは
政府の要求に従うことを決める。

5月19日 場所は大津地方裁判所のまま

異例の大審院法廷が開催されることが
告示された。

ところが この時
児島惟謙が ひそかに巻き返しに出る。

大津へと乗り込み
政府に屈しないよう

担当裁判官たちを
じかに説得して回ったのだ。

児島は 裁判長の堤 正己を
宿泊先に呼び出すと こう語りかけた。

児島の熱意に押され
担当裁判官たちは 次々と同意した。

児島の介入を知った明治政府は
慌てて 内務大臣 西郷従道を派遣。

西郷は 声を荒らげた。

ロシアの艦隊が
品川沖に現れ

攻撃すれば
日本は壊滅する。

これでは 法律は

国家の平和を
保つものではなく

国家を破壊するものと
なってしまう!

しかし
児島は 頑として聞き入れなかった。

ロシア皇太子 ニコライの襲撃犯人
津田三蔵の裁判が始まった。

争点は 刑法百十六条 すなわち
大逆罪を適用し 死刑とするか否か。

注目の判決が下された。

「判決 其所為ハ

謀殺未遂ノ犯罪ニシテ

被告 三蔵ヲ

無期徒刑ニ処スルモノ也」。

東京で判決を知らされた伊藤らには
もはや なすすべはなかった。

やむなく その結果をロシアに伝えた。

ロシアからの返答が 明治政府に届く。

なぜ ロシアは
すんなり判決を受け入れたのか。

日露近代史の研究家
麻田雅文さんは こう指摘する。

…というのが 一つ 大きいと思います。

こうした…

そこから フランスに
同盟相手を乗り換えるんですけれど

ちょうど大津事件というのは
その端境期にあったものですから

ヨーロッパで同盟国がない時に

アジアで戦争を起こすというのは

まあ ロシアにとっては あまり
やりたくない冒険だったと思います。

判決から3日後

大逆罪が適用されなかったことを
支持する記事が

横浜居留地のイギリスの英字新聞

ジャパン・ウイークリー・メールに
掲載された。

くしくも 大津事件の判決は

日本が 立憲体制を運用する
近代国家であることを示す結果となった。

判決の2週間後の6月11日。

児島と 偶然 顔を合わせた伊藤は
冗談交じりに こう語った。

思いがけない幸運だったと伝え
児島と別れた伊藤。

大津事件から3年後の明治27年

日本政府は イギリスとの間で
日英通商航海条約を締結。

念願の不平等条約改正の糸口をつかむ。

一等国として世界の仲間入りを目指し
こぎ出していくのであった。

ということで 伊藤は 選択1の
大逆罪を適用するを選びましたが

大審院は 政府の介入に屈せず
伊藤の思惑は外れます。

しかし 裁判の判決に
ロシアは「満足だ」と伝え

懸念された領土割譲や戦争は
回避されました。

伊藤さん この大津事件の決着
どのように思いますか?

はい。 伊藤の行動はですね

ロシア側の行動を
よく見ながら行動しています。

えっとですね 16日にですね
賠償金を請求しないという通告が

あったあとですね
17日以後は 伊藤はですね

判決を変えるための
圧力を変えるような行動を

一切 取っていません。

どういう考えだったかというとですね

2つ 考えてたんだろうと思います。

まあ 一つはですね…

ロシアは大国で 日本は下でですね

そういう礼を示して…

しかしながら もしですね

死刑を適用しないという判決が
出たらですね

ロシアは 恐らく
何もしてこないということが

ほぼ 分かっていますから
そしたら これは…

だから どっちもいいだろうと。

そしたら
自分はどうすべきかと思ったら

今更 だから もう
死刑を適用しないというのも

あんだけ言っとった手前
少しみっともないから

まあ じ~っとしていて
なるようになるという

そういうことだと思います。

だからですが 西郷従道などは
必死になって死刑っていうのは

ちょっと本当に やっぱりですね
一本調子というか

あんまり その
やっぱり 伊藤と比べるとですね

国際感覚がちょっと弱いのかなあと
思います 私は。 はい。

これ…
伊藤博文は柔軟ですね やっぱり動きが。

あの… 「うん?
賠償金 向こう要求してこない?

これはイケるなあ!」と思うと

今度は…

松方や西郷は もう最後まで
「国家の方が法律より大事だ!」とか

何か それを言い続けるんですけど

もう お侍ですねえ 昔の。 本当に。

だけど 伊藤はもう そこが柔軟で。

多分…

誠実にやりましたと。

もう取れるもんは
全部 取ってるわけですよね。

だって 法律は曲げなかった。

それで その上 最後に
外国特派員は みんな

日本は ちゃんと
法の体系は守ったって褒めてもらえる。

総取りできたという。
総取り そうですね。

ロシア艦隊がやって来るっていう
一抹のリスクはあったけれども

取れたっていう。

この辺 やっぱり しなやかっていうか
ズル賢いっていうか。

伊藤博文の
あの俊敏な動きによるものでしょうね。

山口さん いかがでしょうか。

あの… まず 児島惟謙さんについて言えば
よく 法律家が指摘するのは

児島の二面性なんだろうというふうには
思いますね。

2点ですね。
まず…

あと もう1点は
管轄違背だろうっていうお話ですよね。

そういう意味で 私は
児島さんっていうのは

どうして こんな こう厳格に…

この二面性
どうしても理解できなかったんですが

今回 この人は むしろ
政治家なんだなっていうところで

腹落ちした部分がすごくあります。

そうです そうです。
全くそうだと思いますね。

いわゆるですね 対外硬派といわれる
グループに 恐らく近い…

近いというかですね
感覚を持った人ですね。

だから 裁判手続き法上は

大審院のトップ自体が
破りまくりなわけですよ。

法律に あんなことやっちゃいけないって
いっぱい書いてるのに

上司が部下の裁判に介入して

「こうやれ!」とか言っちゃいけないって
条文にまで書いてあるのに。

やっぱり駄目なんですよね。
やるんです。 いや 駄目ですよ それは。

裁判の独立からすると 裁判官の独立や…。
ねえ やっちゃうわけですよね。

この大津事件は
その後の伊藤博文や明治政府に

どんな影響を与えたと考えるか
皆さんに伺っていきたいんですが

真山さん いかがでしょうか。
そうですね。

列強と日本の距離が
思ったよりも そう離れてないな

という印象を持ったかなと。
はあ~。

もし ここで大逆罪を適用しなかって
ロシアが怒ったら

やっぱり 我々が 所詮
ものすごい下の国だと見られてる。

まあ そのあと
不平等条約も変わっていきましたよね。

だから まあ
ものすごいリスクテイクもしてますし

もういろんな… 多分
プランC Dぐらいまで作った状態で

対応をした結果
一番いい答えを出したことでですね

もう多分 手の届くところに
列強がいるんだって 多分思った。

これ よかったか悪かったは
後の歴史を見ていると

必ずしもよかったとは
言えないんですけど

これが 多分
外交って こういうもんなんだっていう

多分 ひな形を彼に与えたのかな
っていう気はしますね。

う~ん なるほど。
伊藤さん いかがですか?

えっとですね 伊藤のですね ロシア観に
とてもいい影響を与えたと思います。

つまりですね
明治維新のですね前後から

やっぱり 伊藤はですね
列強の あのパークスとか…

イギリス公使 パークスとか
接する中で

いかに彼らが横暴で
列強のルールは日本には適用せずに

彼らが勝手なことを
言ってくるかということを知っています。

まあ その中で
まあ ロシア皇太子というのが

非常にですね まともな対応をしていると。

そして ちゃんとですね この問題は
無事 終わったんだということで

伊藤の対露観がですね
とてもよくなったと思います。

まあ それはですね そのロシア皇太子が

ロシア皇帝のニコライ2世と
あとでなるわけですから

日露戦争前にですね
まあ 日露戦争を避けようとですね

日露協商路線というのを
取るんですけれども

まあ それが成功してた可能性もあります。

それから もう一つは 条約改正のですね
一助にもなってると思います。

まあ 「一助」と
私は あえて言いますけど

それはやっぱり イギリスが
日本と条約改正してくれたのは

日本のですね 国力と軍事力を認めて

日本を中軸として
中国でのイギリスの利権なんかをですね

守っていくのがいいと イギリスが
最終的に判断したからですけれど

この事件もですね
日本の外交力を示したと言うか

まあ あの 上手に日本が動きながら

最終的に 日本にとって
一番いい結果に持っていったんだと。

まあ その 外交力を示すっていうことは
やっぱりですね

国力の一部になりますので。
まあ それが

そういう意味では 条約改正に
結び付いたんだろうと思います。

う~ん。 さあ 磯田さん
今日は あの大津事件を

外交というポイントで
見ていきましたけれど。

外交を見てみると
本当に その 外国の情勢に

ものすごく敏感に早く情報収集をして
行動する日本というのが

やっぱり見えてきますよね。

島国が陥りやすいね
その国内の事情だとか何とかで

外交を決めちゃったら
まずい場合があるわけですよ。

ところが そういうことはなくて

現実で物を決めるということの大事さを
本当に思いましたね。

現実を見る目を曇らせるのって
脅威と権威だと僕は思ってて

やっぱり
現実を 理性的に情報を精査して考えて

で これは この決着がいいと思ったら

素早く行動して
変わり身の早いという伊藤の姿ですよね。

やっぱり こう
周りの環境だとか 他国の状況だとかに

非常に過剰に敏感に早く動くということで
勝ちを取ってきてる

この 生まれたての明治国家の
姿っていうのを

やっぱり 今回 見たような気がしますね。
う~ん。

いや~
実に柔軟な伊藤の姿が見えましたよね。

皆さん 今日は ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。

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