出典:EPGの番組情報
100分de名著 ドストエフスキー“カラマーゾフの兄弟”3▽魂の救いはあるか[解][字]
金と欲望に翻弄され続けていた長男ドミートリーだが、彼の情熱にほだされたグルーシェニカとついに互いの愛を確かめ合う。だがその直後に父殺しの罪を問われることに。
番組内容
狂おしいまでに金と欲望に翻弄され続けていた長男ドミートリーだが、彼の情熱にほだされたグルーシェニカとついに互いの愛を確かめ合う。だがその直後に父殺しの罪を問われることに。イワンとアリョーシャそれぞれにも事件が起こる。彼らの姿には、善悪の矛盾に引き裂かれつつも、決して失われることのない生命の輝きがある。第三回は、人間は、善悪の矛盾の只中に置かれながらも、その魂の救いがありうるのかを考えていく。
出演者
【講師】名古屋外国語大学学長…亀山郁夫,【司会】伊集院光,安部みちこ,【朗読】津田寛治,【語り】加藤有生子ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
ああ…。
窮地に陥った
カラマーゾフ家の長男 ドミートリー。
彼を救うのは 愛なのか…?
そうなんですよ。
「父殺し」をめぐる 罪悪感と葛藤。
第3回は さまよう息子たちの姿を通して
人間の魂を救うものは何かを考えます。
♬~
(テーマ音楽)
♬~
「100分de名著」 司会の…
さあ 世界的名著「カラマーゾフの兄弟」の
第3回です。
どんどん引き込まれていくもんですね。
ストーリーも面白いですもんね。
はい。 さあ 指南役の先生
ご紹介します。
ロシア文学者の亀山郁夫さんです。
よろしくお願いします。
お願いいたします。
前回ですね あの次男のイワンと
料理人のスメルジャコフが
意味深長な会話をして その翌日に
お父さんのフョードルが殺される
というところまで読みましたよね。
はい。
で 今回は
その時 三男のアリョーシャは
一体 どうしていたのかというところから
読んでいこうと思います。
アリョーシャにとっては 自分の父親と
もう一人 精神的な父っていうのが
いるわけですね。
それが まあ ゾシマ長老ということに
なるんですが
このゾシマ長老が亡くなって
その遺体から 速やかに腐臭が発せられる
ということが起こるわけなんですね。
実は その当時の まあロシアでは
聖人の遺体というのは 腐らないという
伝説があったということで
アリョーシャとしては
まあ 大変なショックですね。
そりゃそうでしょという
話なんですよね。 そうなんですよ。
人が死ねば
それは 腐っていくんでしょうけども
素直に信仰してきたアレクセイにとっては
やっぱり 相当ショック。
それに対して 今度は ゾシマ長老に
反感を持つ 一部の修道僧たちは
これは神の意志なんだ。
つまり 神は
ゾシマ長老を見放したんだという
そういう その結論に達するわけです。
アリョーシャとしては まあ これまで
ゾシマとの
一体感の中で生きてきましたから
まさに 信仰の揺らぎを経験するという。
さあ では アリョーシャは
どうなるのでしょうか。
そこから見ていきましょう。
ゾシマ長老の柩の前で祈りを捧げる
失意のアリョーシャ。
そのうち 眠りに落ち 夢を見ます。
それは 福音書にある
「カナの婚礼」という
イエス・キリストが
水をぶどう酒に変える
奇跡を起こした場面でした。
そこには ゾシマ長老もいました。
アリョーシャに 「自分の仕事を
はじめなさい!」と言うと
立ち上がらせます。
喜びの涙を流して
アリョーシャは 目覚めました。
そのまま外に出た アリョーシャは
星空を仰ぎみてから 大地に倒れ込みます。
う~ん いや ちょっと
朗読の力も相まって
とても こう 感動的なシーンなことは
伝わるんですけど。
これをちょっと
理屈の方が ちょっと分かると
ここ スッと入ると
思うんですけど。 そうですね。
ドストエフスキーの世界観の
根底にあるのが
やはり
そのロシアの大地を愛するというか
そこを出発点にしないと
何も始まらないというですね
そうした
そのドストエフスキー自身の信念
これを 「土壌主義」と言うんですね。
ロシアの大地から生まれる精神性
というものを非常に大事にしようと。
大地に しっかりと根づいて
なおかつ この宇宙とも結び付くような。
宇宙と大地と生命。
これが三位一体となった
こう 独特の感覚でですね
それを得ることによって
アリョーシャは 精神的に復活する。
面白いなと思ったのは
腐敗って 言葉は悪いんだけど
大地にかえることじゃないですか。
ああ そうですね。
その 生物として言えば。
ええ ええ。
だから そこ 大きいのかなって。
うん そうねえ。
大地そのものに
師匠は なったんだって思うと…。
土に かえって…。
ねえ。
すばらしい発見だと思います。
腐臭を克服したんですね。
大地という観念によってね。
はい はい。
で ここで「彼は生まれ変わって
戦士となった」と
こう 書いてあるわけですよね。
それは ただ単に
修道僧ということではなくて
一人の人間として
よみがえるっていうか。
で その長男ドミートリー
これまで 何をしていたかといいますと
婚約者のカテリーナから横領した
このお金 3, 000ルーブルを返そうと
奔走していたんです。
新しい生活を始めるにはですね
人から横領したお金でですね
何とかしようなんていうのは
まさに こう
彼自身の自尊心が許さない
というところがあるんですね。
まあ彼自身 その…
この3, 000ルーブルに
あまりにも とらわれるあまりに
彼自身 この「父殺し」に
大いに関わっていくっていうか
非常に 魔のお金でもある
ということですね。
魔のお金。
謎の価値観。
そうなんですよ。 そうなんですよ。
何なのかな?
女性から だまくらかして 金を取ったもの
という不名誉は嫌なんですね。
さあ ドミートリーは
どうなるんでしょうか。
見ていきましょう。
ドミートリーは あらゆる人を訪ね
金の無心をします。
しかし 誰も貸してくれませんでした。
途方に暮れたドミートリーは
愛するグルーシェニカの家を訪ねます。
しかし 彼女は いませんでした。
グルーシェニカの行き先にピンときた
ドミートリーは
とっさに 小さな銅の杵をつかんで
あるところへと急ぎます。
外から 寝室の様子をうかがうと
フョードルが 一人でいました。
うおっ。
とっ… 突然 ここに来ましたけど。
ここで終わるんですね。
一旦 切れ目が来るんです。
まあ 私自身も高校時代に読んだ時には
ここで 本当に混乱に陥りまして。
まるで この ハリウッドのですね
連続ドラマみたいな切れ目が
バチッと来るわけですね。
これは あのドストエフスキーがですね
ミステリーを意識した書き方なんですね。
19世紀のロシアの作家は
とても こんなふうな考えには及ばない。
普通は使わない手法なんです。
で この次に語られるのは
この時に フョードルの屋敷にいた
下男グリゴーリーから見た
その夜の情景なんですね。
で 様子を見に 起き上がった
グリゴーリーは
庭を横切る
ドミートリーを見つけ
「父殺し!」と叫びながら
飛びつきます。 はい。
すると ドミートリーに
頭を杵で たたかれました。 はいはい。
ドミートリーは グリゴーリーを殺害して
しまったのかもしれないというような…。
で このグリゴーリーを
殺してしまったかもしれないという
その予感のもとでですね
どこへ急ぐかっていうと
この時点で グルーシェニカは
父フョードルと ドミートリー
それだけではなくて もう一人
昔の恋人 ポーランド人なんですが
3つの可能性を こう追求してる
というか 三つ股というか。
ということで
その どうもグルーシェニカがですね
昔の恋人の待っているらしい
そのモークロエという村にですね
駆けつけていくわけなんですね。
モークロエは
かつて ドミートリー自身が
グルーシェニカと 一旦 こう
豪遊した場所でもあるわけです。
この向かっていく場面が
すばらしいんですね。
まあ私自身も 実は昨年 ハイヤーでそこを
同じ道をぶっ飛ばしたんですけども。
ええ~!
ああ…! その気持ちが知りたくて?
ええ~!
はい。
もうほんとに 小説の中でも とりわけ
際立った躍動感に満ちていて
ドミートリーという人間そのものを
こう 表してるような
すばらしい場面であるんですね。
さあ どんなふうに向かっていくのか
ご覧頂きましょう。
ドミートリーは
酒と食べ物を買い込んで 馬車に積み
一路 モークロエと向かいます。
モークロエに到着すると
グルーシェニカは 昔の恋人や
その仲間たちと一緒にいました。
突然現れた ドミートリーに
グルーシェニカは驚きます。
ああ…。
♬~(歌声)
突然 始まった どんちゃん騒ぎの中で
縮まる 2人の距離。
人を殺したかもしれないという
罪悪感を抱えながら
ドミートリーは
グルーシェニカとの愛に 救いを得ます。
しかし 突如
警察官と検事ら一行が やって来て
ドミートリーは逮捕されてしまいます。
それは 下男グリゴーリー殺害ではなく
フョードル・カラマーゾフ殺害の
容疑者としてでした。
妙に この不器用な男が すてきな…。
「酔ってるよ」っていう
「君に酔ってるよ」という あのくだりまで
すごかったですよね。
で ドミートリーは 父親殺しの犯人だと
言われていましたが
その理由は 主に2つあります。
フョードルの部屋から
3, 000ルーブル 無くなっている。 おお。
そして 無一文だったドミートリーは
豪遊しているというのが
かなり 疑いを深めることに
なったんですよね。
それは もちろん あのカテリーナから
横領したお金なんですけれども。
ということは 今回の豪遊でも
同じ額を使ってるはずだと。
それは 父親から 部屋から消えた
3, 000ルーブルということなんですね。
同じ数であると。
そういうふうな嫌疑を受けたわけですね。
推理小説として よくできてる。
とても よくできてて
こう考えるのが普通だもん 逆に。
警察側からしたら。
そうですねえ。
で 追い詰められましたので
ドミートリーは真相を告白するんです。
はい。
実は 1度目の豪遊の時に使ったのは
カテリーナから横領した
3, 000ルーブルのうちの半分
1, 500ルーブルだったんですと。
で 使わなかった
残っていた 1, 500ルーブルを
今 2度目の豪遊で使ったんです。
父親の金は
盗んでいませんと主張したんです。
じゃあ なぜ ドミートリーは今まで
3, 000ルーブル 全部 使い切ったように
見せていたのかと。
これは やっぱり非常に微妙な男の心理
というか 男の見栄なんでしょうね。
この1, 500ルーブルを
残すっていうのは
実は 彼にとっての
生命線だったというのは
3, 000ルーブル 全部 使っちゃった
ということになると
これは もう完全な泥棒 ぬすっと
ということになるわけですよ。
しかし…
そういう この盗むということに関して
恥辱の感覚っていうのは なかなか我々
つかみにくいところがあるんですね。
盗みは ある意味では
人間の弱さの証明なので 最低の低
クズのクズみたいな犯罪だという認識が
ドミートリーの中にあるので
グルーシェニカに愛される価値は
ないぐらいの
そんなふうな見栄があって
告白できない その障害となって
彼の中で 意識の中で
立ちはだかっていたものなんですね。
ものすごい興味深くなってきたのは
その ロシアっていう時代が変わる時に
書かれてるわけじゃないですか。
そうですね。
そうするとね
うちのじいちゃんなんかはね
その 子供の教育の中に けんかはいい。
けんかはいいけど 盗みはするなっていう
感覚って あるんですよ。
刑罰の重さでいうと どうやったって
相手を大けがさせる方が悪いんだけど
10円 盗むのより。
そうですねえ。
だけど その じいちゃんの感覚は
そういう感覚なんだよね。 そう。
ある意味では 古いモラル
なのかもしれませんね。
ですよね。
もしかしたら 俺 ミーチャ
ドミートリーのこと 分かるかな。
そういう価値観の間で
ちょっと こう揺れてる人っていう。
その はざまの人なのかな
っていう感じは。 へえ~。
で あの亀山さんから見ると
あの どんちゃん騒ぎのシーンは
ドストエフスキー文学の特徴なんだ
ということなんですよね。 そうですね。
もう 本当に
ドストエフスキーならではの
まあ 特に「カーニバル感覚」
というようなふうに表現されるんですね。
ああいうふうな 集団的な中で
どんちゃん騒ぎをする。
もう 上も下もない。 貴族も農奴も
あるいは 善も悪もない
美も醜もないってところで
ごちゃ混ぜになるような
そういう場面を ドストエフスキーは
小説の要所要所に描いていくんですね。
これまで いわゆる象徴層における
神が いるのかいないのかとか
あるいは 世界の調和は
あるのかないのかとかいった
言ってみれば 正解を求めるような
そうした議論を
展開してきたわけですけれども
ここで いわば
価値の平準化って言うんですか
そういったものを
ひっくり返してしまうような
こう 場面をですね 描くことによって
こう 全体の事件の正誤を
突きつめていくという
この辺りは 本当にすばらしい手法だ
というふうに思いますね。
でも結局 ドミートリーは
このあと どうなっていくんでしょうか?
心境の変化が起こるんですね。
もちろん 彼自身の中に
身に覚えはない罪なんですけれども
しかし 彼自身
銅の杵をつかんだくらいですから
父の死に対する願望があったことは
事実ですよね。
その彼に 罪を引き受けようという
気持ちが生じてくる
実は このきっかけとなるのが
ある夢なんですね。
あっ また夢だ。
そうなんです。
夢の中で ドミートリーは
馬車に乗っていました。
草原を進むと 見えてきたのは
火事のあとの村。
道には やつれた女たちが並んでいました。
その中の一人が抱く乳飲み子は
泣いています。
女の乳は もう 一滴も出ないようでした。
ドミートリーは 御者に話しかけます。
子供と母親のために 今すぐ
何か してあげたいと思った
ドミートリーの耳元に
グルーシェニカの声が聞こえてきました。
すると 生きる力が湧き上がり
ドミートリーは 眠りから覚めます。
そして 判事たちの前で
こう宣言しました。
これは すごいな。
ちょっと 何だろう 感動してしまう
感激してしまうシーンかな。
ドミートリーっていう まあ 男は
幼い頃から 両親から捨てられて
傷ついた上に 自分自身の
この誇りを貫こうとして
逆に また この自分の傷をですね
増やしているような
そんな人間なんですね。
で その彼の傷というのは
まあ ある意味で
こう 彼自身を
自己中心的な存在にしてしまって。
彼は全くこう 周囲の現実 人が
何を感じてるかということに対して
想像力が及ばない人間になってしまってる
ということがあるわけなんだけれども
初めて この
餓鬼という存在を 夢の中で見て
「世界の中に 不幸が存在するんだ」
そういったものに 初めて認識が及ぶって
いうんでしょうかね。
これは ちょうど そのアリョーシャが
夢の中で その復活を遂げる。
今度は ドミートリー自身も
この夢を通して
一人の人間として こう復活してく
というんでしょうかね。
この アリョーシャの夢といい
その ドミートリーの夢といい
まあ 一種 うまくパラレルに進んでいく。
これが
パラレリズムと言うんですけれども
反復することによって
より 意味合いとか面白さを強力に
読者に向かって
押し出していくところがあるわけですね。
あの 餓鬼というモチーフを
思い出してみると
あの 次男のイワンの方ですけれども
「プロ」と「コントラ」のところで
虐待を受ける子供が
出てきましたよね。
はい はい。
非常に これも一種の
パラレリズムなのかもしれないんですけれども。
イワンの場合には 虐待で苦しんでいる
子供たちっていうものの
その不幸をですね
神が 黙って見過ごしている。
黙過してる。 それが
理解できないんだっていうんで
神 あるいは世界そのものを こう
否定しようとするわけなんですね。
それに対して ドミートリーの場合には
逆に 苦しむ子供の存在を認識し
その子たちに何とかしてあげたい
という 非常にポジティブな
つまり 世界の存在というものを肯定し
苦しんでいる餓鬼たちに代わって
自分が罪を受けたいという
そういう自己犠牲の精神に
目覚めているというところ。
ここが イワンと そのドミートリーの
大きな違い
二人の思想の大きな違いが 明らかに
なってくるっていうことなんですね。
しびれるなと思うのは とても イワンは
利口で インテリジェンス高くて
それこそ とても現代的な理屈で
物事を分析できる人じゃないですか。
でも ドミートリーは
もっと高いレベルのことに
理屈では分からないが
夢では たどりつくという。
でも かなりドミートリー
親しみ 感じてらっしゃいますね。
ドミートリーは もうミーチャと呼びたい。
ミーチャは 純粋。
純粋 イコール 善ではないけど
純粋は純粋ですよね。 純粋。
時代のはざまで
すごく不器用に生きてる人ですよね。
「ミーチャと呼びたい」というふうに
言ったのは 本当に すばらしいことで
それは ドストエフスキーが
そう仕掛けてるんですよ。
ああ~!
そこまで いったというのは
すばらしいことで。
いや でも何か それを
クソ~とは思わないです。
気持ちいいです。
すごく気持ちいい。 はい。
今回も先生 ありがとうございました。
ありがとうございました。
♬~
東京都のニックネーム
おフランスさんからです。
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