出典:EPGの番組情報
NHK地域局発 紀の国スペシャル「“豪雨から”を生きる」[字]
多くの人々が家族や故郷を失った紀伊半島豪雨。人々は喪失をどう受け止めて来たのか。生き抜いても続く苦悩、一方でさし込み始めた希望の光。10年の時が語る真実に迫る。
番組内容
2011年9月、和歌山県を襲った紀伊半島豪雨。紀南地域では61人の死者・行方不明者を出した。…あれから10年。被災地では、河川の護岸工事が終わり、新たな砂防ダムの建設が進んでいる。見た目の復興が進む一方で、今なお、豪雨で失ったものを受け止めきれず、苦しんでいる人たちがいる。愛する家族を亡くした人、長年住み慣れた集落を流されてしまった人…。彼らにとって再生とは何か。豪雨から10年の現在地を見つめる。
出演者
【語り】石橋亜紗ジャンル :
ニュース/報道 – ローカル・地域
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
情報/ワイドショー – その他
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
また周り
どうすればよいかを解説します。
茶色く濁った濁流が激しく流れています!
10年前 紀伊半島を襲った豪雨。
1週間 降り続いた雨によって
和歌山県の各地で河川が氾濫しました。
特に被害が大きかったのが 県の南部。
死者と行方不明者は
合わせて
61人に上りました。
あれから 10年。
各地で 復旧や水害対策が進みました。
(拍手)
しかし
あの日 日常を奪われた人たちは
今なお 苦悩や葛藤を抱えています。
家族を一度に失い
人生の意味を考え続けている人もいます。
よりどころを失い
手探りで歩んできた 10年。
“豪雨から”を生きる
人々の姿を見つめました。
和歌山県内で最も多い
29人が犠牲となった 那智勝浦町。
10年前の豪雨で氾濫した
那智川の上流では
砂防ダムの建設や護岸工事が
今も続いています。
その那智川の上流…
ここらへんに…
氾濫した川に自宅が流され
自分以外の家族5人全員を亡くしました。
両親と2人の妹
そして 年の離れた弟の6人家族。
仲がよく 笑顔の絶えない一家でした。
10年前の9月4日。
1時間に100ミリを超える雨が降った
那智勝浦町。
深夜 那智川の支流が決壊しました。
この時 川には
山で発生した土石流が
流れ込んでいました。
中平さんの自宅は
木々や岩を大量に含んだ濁流に
押し流されたのです。
当時 既に就職し 東京にいた
中平さんだけが助かりました。
家族を失ったという現実を
なかなか受け入れることができなかった
中平さん。
しばらくは
ふるさとから距離を置いていました。
気持ちに変化があったのは
豪雨から6年後。
もう一度
家族と向き合いたいという思いが募り
和歌山に戻り
祖父母たちと暮らすことを決めました。
うん あるよ まだ。
豪雨のあと
中平さんが集めてきたものがあります。
家族の痕跡です。
豪雨で ほとんど流されてしまった
写真などの思い出の品。
きょうだいが通っていた学校や
友人のもとを訪れ
譲り受けてきました。
しかし 家族との思い出に触れる時間は
安らぎとともに
つらい現実も突きつけます。
家族に向き合おうとする中平さんを
支えようとしてくれる人たちも
現れました。
その一人
自動車販売業を営む 今井寛己さんです。
中平さんの父 幸喜さんとは
15年来の親友でした。
水につかり 動かなくなっていた
父の愛車。
中平さんも 助手席に乗せてもらうのが
楽しみでした。
そんな思い出の品を 今
父の親友たちが
修理してくれているのです。
8月。
中平さんは
ふるさと 市野々地区に向かっていました。
家族につながるものがあると
聞きつけたのです。
それは 弟 景都さんにまつわるもの。
豪雨の時 まだ小学2年生でした。
一緒に過ごせた時間が一番短かった弟。
懸命に生きた痕跡を見つけたいと
思っています。
訪れたのは 防災施設。
校庭で遊ぶ 子どもたちの絵。
豪雨のあと 景都さんの小学校の友達が
描いたものです。
子どもたちを見つめている
右上のひときわ大きな男の子の顔。
景都さんです。
中平さんは
絵に込められた思いを知りました。
「けいと君が
学校や人を見ているようにしました」。
「けいと君に ずっとずっと
見守っていてほしいからです」。
家族が多くの人に愛されていたという
大切な証し。
10年の時を経て
中平さんのもとに届きました。
豪雨で
愛する ふるさとを失った人もいます。
田辺市内で暮らす…
豪雨で住むことができなくなった集落を
時折 訪れています。
田辺市本宮町奥番地区。
10年前まで ここに
7世帯10人が暮らす
小さな集落がありました。
林業で栄えた奥番地区。
昭和40年ごろには
およそ100人が暮らしていました。
しかし 10年前の9月4日。
奥番地区は
大量の土砂によって押し流されました。
元の生活を送ることができなくなり
集落は解散することになったのです。
集落がなくなったあとも
奥番地区のつながりを
守ってきた人がいます。
当時 区長を務めていました。
豪雨のよくとし。
野下さん夫婦は
奥番地区に 再び 人を集めました。
集落で毎年行われていた
秋祭りの復活です。
久しぶりに 地区のつながりを
感じることができました。
ないと思います。
しかし 今年6月。
野下さんに つらい出来事がありました。
(鈴の音)
夫の義計さんが亡くなったのです。
集落の人たちとの交流が生きがいだった
義計さんは
最後まで ふるさとを思い続けていました。
7月末。
義計さんの四十九日を迎えた この日。
野下さんは
久々に 奥番地区にやって来ました。
10年前 奇跡的に被害を免れた
奥番地区の墓地に
遺骨を埋葬することにしたのです。
(鈴の音と読経)
野下さんは 当初
奥番地区への埋葬を
ためらっていました。
離れた場所に暮らす子や孫の負担が
大きくなると感じていたからです。
ところが 孫の竜児さんが
思いがけない言葉をかけてくれました。
奥番地区にルーツを持つ自分たちが
お墓の面倒を見続けると
約束してくれたのです。
ありがとうございます。
豪雨から10年を迎えた この日。
野下さんは 写真展を訪れていました。
集落がなくなったあとの奥番地区を
10年にわたり記録した写真が
展示されています。
野下さん夫婦と親しくしていた写真家が
撮りためていたものです。
これ 同級生 私の。
奥番地区にゆかりのある人たちが訪れ
懐かしんでいました。
夫の死後
奥番地区のつながりが失われることを
心配していた野下さんは
明るさを取り戻していました。
同じ 9月4日。
中平さんは 家族5人が眠る お墓に
1人でやって来ました。
お墓で いつも していることがあります。
そういうことは せずに…
家族を思い続けてきた 10年でした。
でも う~ん 何だろ…。
なので…。
“豪雨から”を生きてきた 10年。
消えることのない悲しみを胸に
また “今日から”を生きていきます。
♬~
Source: https://dnptxt.com/
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