出典:EPGの番組情報
インタビュー ここから「歌手 五木ひろし」[字]
ゲストは歌手の五木ひろしさん。「よこはま・たそがれ」から50年。歌謡曲・演歌・壮大なバラードと多彩な表現力で歌う五木さんの原点に迫る。
詳細情報
番組内容
ゲストは、歌手の五木ひろしさん。何度も芸名を変えるという苦しい時代を過ごした後、「よこはま・たそがれ」で五木ひろしとしてデビュー、大ヒットを記録する。それから50年。歌謡曲、ポップス、演歌まで、幅広い表現力を武器に歌謡界の第一線で活躍し続けている。そんな五木さんの歌の原点は童謡・唱歌にあるという。そして、五木さんが考える歌手の姿とは。思い出の町・横浜で、小松宏司アナがインタビューした。
出演者
【ゲスト】歌手…五木ひろし,【きき手】小松宏司ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
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解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)
「インタビュー ここから」
今回は ここ横浜にゆかりの深い
この方がゲストです。
よろしくお願いいたします。
どうぞ よろしくお願いします。
五木ひろしさんです。
どうも 五木ひろしです。
「よこはま・たそがれ」から50年。
この横浜の街を見ると
どんなことを思い出されますか?
そうですね。
懐かしくもあり 随分変わりましたね。
でも 私の原点ですからね。
五木ひろしの原点ですから。
この歌がなければ
今の私はありませんので
本当に ずっと
私にとっては 生涯の宝物ですね はい。
♬~
♬~
いや~ ありがとうございます。
いえいえ。
この景色に
「よこはま・たそがれ」 しみますね。
いや~ 何か 50年前を思い出しますね。
あの… こちら。 はい。
この「よこはま・たそがれ」の
レコードジャケット。
振り返ると
この写真をどうやって思い出されますか?
これはね 僕は デビューは もう
この5年ほど前に
デビューしてるんですけれど
なかなかヒット曲に恵まれずに…。
それで 2年ごとに芸名を変えたり
レコード会社をかえたりして
また その… デビューはするものの
将来的には不安を感じているわけですよ。
本当にうまくいくのかどうかっていうね。
だから ちょっと この…
よく見ていただければ分かりますけれど
何となく ちょっと
あまり人を信用してないというか
何か こう
疑心暗鬼なとこがあって…
という表情が出てる
これ ジャケットですね。
普通 ジャケットっていうと
もっと こう いい笑顔だとかね
いい写真で撮るでしょ。
これね
本当に その時の心情そのものですね。
昭和40年
五木さんは「松山まさる」という芸名で
デビューします。
しかし 曲はヒットしませんでした。
その後
芸名を2度変えて曲を出しましたが
それでもヒットには恵まれず
クラブの歌手として
歌っていたのです。
それなりに 歌の道というか
歌の仕事はしていたんですけれど
やっぱり レコード歌手として
ヒット飛ばして
そして
スターになることを夢みていた時に
ちょうど 10週勝ち抜きの番組が
ありましてね。 これに出ようと。
それで もう いろんな
審査員の方々に評価していただいて
駄目なら もう やっぱり
歌は やめちゃおうと そんな思いで
必死な思いで これ 出場したんですけど
その必死さが伝わったのか
10週勝ち抜けて…。
あの番組「全日本歌謡選手権」
もう プロの歌手も
アマチュアの歌手も出ていて
もう そこで審査が届かなければ
そこで おしまいというかね
次の週 出られないですからね。
アマチュアはね
まだ やり直しが利きますけど プロはね
もう駄目っていうことですから。
プロが出て落ちると
もうノーチャンスですよね。
だから その後
いろんな仕事をして
いろんなことに
チャレンジをしましたけれど
あれほど 怖さと
もう 必死さというか
そういうものを含めて
思ったことはなかったですね。
だから 僕は 22の時に
人生最大の勝負をしたわけですよね。
それで勝利を得たと。
その自信は その後の
五木ひろしの この50年間で
ものすごく
大きなものになりましたね。
「全日本歌謡選手権」で
審査員をしていたのが
作曲家 平尾昌晃さんと
作詞家 山口洋子さん。
この2人によって生み出された歌が
「よこはま・たそがれ」でした。
この「よこはま・たそがれ」を
平尾先生が デモテープで
ご自分が歌ってらっしゃるのを
僕 聴いた時に
面白い歌だなと思ったんですよ。
今までに手にしていた曲とは
全く違いましたか? 全く違うんですよ。
僕はね どっちかっていったら
暗く 重かったんですよ 歌い方が。
それでね やっぱり 平尾先生の
平尾メロディーの あるいは また
平尾先生の持ってるリズム感とかね
どっちかっていったらポップスですよね。
ロカビリーなんかやって
もう大スターでしたので。
その辺が 何か 僕の重さを
ふっと こう うまく…
こう 何て言うんですかね。
あの~ 軽くしてくれたというか。
だから そういう意味では
作品そのものが僕の欠点なり
そういったものも
全て取り去ってくれて
そして 詞の また この…
面白さというか これも相まって
新しい歌謡曲っていう形が
スタートできたんですよね。
だから 歌い手にとって 作品との
出会いっていうのは全てですよね。
詞を手に取られた時は
どんなことを思ったんですか?
いや これも
まあ 見たことない詞でしたからね。
名詞が羅列されているというかね。
そうそう…。
それで ただ サビでね 「あの人は
行って 行ってしまった」っていう…。
そこに「帰らない」「よその人」
「もう おしまいね」という。
だから ある意味では
やさしい歌なんですけれど
実は それなりに難しい歌なんですよね。
今でも そうですけど 歌うたんびにね
この歌の… 何ですか。
あの~ よさというか 新しさというか。
それは これを作った作詞 作曲
お二方っていうのは
本当に新しい世界を作り上げてくれて
僕を世に送り出してくれたと。
「第22回NHK紅白歌合戦」!
曲は大ヒットし
週間ヒットチャート1位に。
「紅白」初出場も果たしました。
♬「あの人は 行って 行ってしまった」
♬「あの人は 行って 行ってしまった」
♬「もう帰らない」
あの年は 1971年は いろいろな
ヒット曲があった年ですからね。
いい歌が
もう山ほどありましたし…。
だから ヒット曲がね
ものすごい数でしたよ。
もう そんな中で
トップになるっていうのはね
もう大変なことだったんですけど
そこまで行きましたんでね。
その山口洋子さんに 僕が
1位になったっていうのを聞いてね
どっか空港だったと思うんですけど
そこから電話を入れたんですけどね。
お礼の電話を入れたんですけど
ありがとうございますっていうことを
ひと言言ったあとはね
ずっと泣けて何も話せませんでした。
山口洋子さんも そうでした。
よかったねって言って
お互いに無言のままという
電話でしたね。
五木さんにとっての
その時の涙っていうのは
何を思い出したんですか?
いや 信じられないっていうことと
やっぱり 長年 夢みてた…。
僕が歌手になったのは
16から17の時ですけれど
振り返れば もう その10年ほど前からね
5~6歳の頃から
歌手には憧れていましたから。
それで 歌手になりたいっていうふうに
ずっと夢みていて。
特に そうですね。 親が離婚したりして
おふくろが大変つらい思いをして
苦労している母親を見てですね
なんとか楽にさせてやりたいと
おふくろを親孝行をしたいっていう
その思いが ずっとあったもんですから
そんなことも含めてね
まあ 何て言うんですかね。
いろんな思いが込み上げてきてという
感じでしたね。
この歌で
やっと夢がかなったという。
♬~
その後も 数多くのヒット曲を出し
歌謡界のトップランナーとして
今も走り続けています。
♬~
演歌や壮大なバラード。
多彩な曲を歌いこなす五木さんが考える
理想の歌手の姿があります。
僕はね いろんなジャンル…
まあ 僕を演歌歌手と言う人も
当然いますし
演歌のジャンルというくくりで
くくってしまう人もいますし
まあ 大半 そう思ってる人が
多いと思うんですけど 僕自身は
五木ジャンルだと思っているんですよ。
僕の中にあるジャンル。
五木ジャンルですか。
はい。 だから
演歌がはやると思えば演歌を歌う。
でも そうじゃないと思えば
そうじゃないものを歌う。
だから 演歌が
大全盛の時もあったわけですよ。
例えば 僕の歌でいうなれば
「細雪」とか 「長良川艶歌」とか。
あの辺っていうのは
ほかの歌手の歌も含めて
演歌が ものすごく脚光を浴びてた
時代があったんですよ。
だから あえて
みんな 演歌歌手というものを付けると
プラスになった時代があったんですよ。
だから それが 今度は それから
どんどんどんどん変わっていってね
それ自体がアダルトな歌
どっちかっていうと
大人の歌というふうに
時代が流れていきますから
そうすると そういうものが
少し古くなったりとかいうことに
なってしまいかねないんで
だから 流行歌っていうのは
その流れというものを
しっかり理解しないと
ついていけなくなる あるいはまた
引っ張っていけなくなる。
というのは ジャンルは いろいろ
ありますよね。 演歌とかJポップとか
もちろん アイドルも含めて幅広く
今 ジャンルがありますけれど
全て含めて流行歌ですから。
はやらなきゃ駄目なんですよ
歌というのは。
でも その時代にも
やっぱり ついていかなきゃいけない。
だから 常にコンサートを
やっててもそうなんですけど
お客さんを楽しませるっていうことは
もちろんなんですけれど
お客様をどう引っ張っていくか。
逆に こちらが流行の先端を行って
それで引っ張っていくかってことを
考えないと
次へ つながらないんですよね。
これ 誰かが そういうふうな
いろんな曲調のものを歌える方が
いいよというようなアドバイスを…?
これは もうね スタートした時のね
作詞家でプロデューサーだったのが
山口洋子さんなんですよ。
山口洋子さんが
僕に対して2つ言ったんですよね。
1つは 都会的で ちょっと危険な男風。
まあ 「よこはま・たそがれ」なんかも
それのタイプですよね。
それで もう一つは
隣にいる おにいちゃん。
どっちかっていうと親しみやすさ。
そして 土のにおいがする男。
だから もう 何か 田舎の… 少し
においもする男でもあってほしいし
とてもしゃれた ちょっと危険な感じの
ちょっと
いわゆる不良っぽいっていうか
この両方を演じてほしいって
言われたんです。
どうやって自分自身が
それを出してきたかっていうと
あえて
それを意識することはないんですよ。
もう作品の中にいて
自分が溶け込みさえすれば
それは出せるんですよ。
だから
歌手っていうのは 一つの作品によって
イメージが出来上がるわけですよ。
だから…。
♬「ジャ~ンジャカジャジャ~ン」
♬「ジャカジャカジャンジャン
ジャンカジャンカジャン」
これで言うと もちろん着ているものは
多少派手になりますけど
それだけで「待っている女」のイメージに
つながっていくんですよね。
今度は…。
♬「チャンチャチャ~ン」
♬「チャチャンチャチャン
チャンチャンチャチャンチャ」
「ふるさと」っていう歌につながれば
もう イントロの世界だけで
いわゆる 誰にも ふるさとがあるという
隣のおにいちゃん的な
優しい土のにおいのする歌手が
誕生するわけですよ。
だから 僕一人が
2人 3人 4人のそれぞれの歌手を
表現していると
同じことになるわけですよ。
だから 大谷選手じゃないですけれど
二刀流じゃないですけど
三刀流にも四刀流にもなるわけですよ。
あの~ 普通 自分が培った一つの
このスタイルでヒットしたから
このスタイルに寄っかかりたいって
いうようなところがあるんですけども
そういうのがないわけですね?
だから
僕 50曲
ヒット曲出したいと思ってますから。
そうすると 2~3色では駄目なんですよ。
色は最低でも10色ぐらいないと。
そうすると その歌によって 歌い方が
変化していかないといけないんですよ。
それ 五木さんは
簡単におっしゃるんですけど
相当難しいことじゃないですか?
いや 全く難しくないんですよ。
難しくないですか。
難しくないというかね…。
だから 僕は歌の原点というのはね
演歌でもなければ
民謡でもなければ 何でもない。
唱歌であり
童謡だと思ってるわけですよ。
一番正しく言葉を伝え
正しく譜面どおり歌う。
そこに多少の味付けさえあれば
その歌が壊れずに いい形で届くわけです。
だから 歌は崩してはいけない。
というのは 崩さないっていうことは
子供の頃 童謡を歌ってた
あるいは 唱歌を歌ってた
あれって崩さないですよね。
♬「夕やけ小やけの赤とんぼ」
…って それが原点ですから。
そうすると 例えば
それが歌謡曲 演歌であったとしても
そこに自分の得意なものは入れつつ
でも イン テンポで崩さずに
しっかりそれを伝えるっていうのは
プロ歌手としての
一番大切なところだったんですよ。
それを自分の中で
しっかり持ってさえいれば
それはできると思いますよ。
だから 僕は
「よこはま・たそがれ」を何千回 何万回
何十万回と歌ったと思いますけど
一度たりともレコーディングした時の
初心を忘れたことはありません。
崩してませんから。
いつも イン テンポで歌い
そして キーも変えずに歌う。
それをずっと貫いてきましたから。
そのメロディー 音符どおり
忠実に歌うっていうのもあるんですけど
日本語
言葉を伝えるっていうのも大事ですね。
いやいや
大事っていうか これが一番なんですよ。
まあ 僕は いつも思うんですけど…
それに…
その2つを基本に
歌手がそれを代表して伝えていく。
だから 言葉が伝わらない歌は
僕は駄目だと思ってるんですよね。
それは だから
さっきも言ったみたいに
童謡だったり
唱歌だったりするのと同じように
アカペラでも しっかりと
その言葉が伝わるような歌でありたい。
♬~
♬~
五木ひろしとして50年。
今 歌に込める思いです。
ただ 今こういう状況なんで
なかなか ストレートにはね
このタイトルが…。
日本に生まれてよかったとは
なかなか思えないなっていうような
状況の厳しさもあったりするんですけど
実は僕自身の中で
勝手に解釈してるのは
僕の50年を振り返った時に
日本に生まれて
日本の歌手でよかったなっていう
僕は 想いで歌ってるんですよ。
自分の想いで。 日本には
こんなすばらしい季節がありね
親子の 家族の絆
これは大切だと。
こういう想いを
子供たちに残しておきたい
伝えておきたいという意味で
これを歌ってる。
だから 今では自分自身の感謝の気持ちの
歌でもあるんですよね。
僕は だから うまく歌うということよりも
それこそ何回も出てるけど
僕の原点の童謡であり 唱歌である。
それと同じような気持ちで
この歌を言葉を伝えたい。
ここから先っていうのは
どう目標を立てていくんですか?
いや バタッと倒れるまでですよね。
バタッと倒れて
天国行っちゃえば終わりですよ。
もう そこまで歌い続け?
いや 歌い続けっていうかね あの~
歌で… 歌と出会って
ある意味じゃ その…
子供の頃を考えればね
もう60年以上
たってるわけですよ。
歌と出会ってなかったら
今の僕はありませんしね
歌が全てなわけですよ。
だから その歌が もう歌えない
っていうことになった時にはね
あるいは自分の思いどおり
歌えないと思った時には
もう終わりですよ。
人間って必ず終わりが来ますから。
それは もう 永遠っていうのはないんで。
ただね 自分が残したこと
ここまで歩いてきたこと
これは永遠に残りますので。
だから悔いなしですよ 僕は。
全く悔いはないですよね
自分の人生に。
ただ あの~ 逆に
今は そう思っているのでね
より一層 悔いのない
これからというものが
自分の中でのテーマですよね。
本当に最後の最後まで行って
そう言えるかどうか。
ここが勝負どころですね。
大詰めの勝負ですよ。
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